遂につかんだ名声

カーチュン・ウォンと《エニグマ変奏曲》:本質に寄り添う愛情と構築美

***定期演奏会 みなとみらいシリーズ 第353回 ***

 

公演日時:2019年11月16日(土)
会場: 横浜みなとみらいホール
出演: 指揮:カーチュン・ウォン
    コンサートマスター:石田泰尚
    神奈川フィルハーモニー管弦楽団

 

曲目:エルガー作曲/創作主題による変奏曲「エニグマ」Op.36

 

 

2019年11月16日、横浜みなとみらいホールで開催された神奈川フィルハーモニー管弦楽団の第353回定期演奏会は、エルガーの《エニグマ変奏曲》に新たな光を当てるものであった。指揮は当時、新たに日本フィルハーモニー交響楽団の客演指揮者に就任したばかりの俊英カーチュン・ウォン。

 

ウォンが振るエルガー――これは筆者にとって未知の体験だった。が、最初の数変奏でその認識は覆された。驚嘆すべきは、全曲を暗譜で指揮するその集中力と、細部にまで神経の通った感情表現である。決して誇張されることなく、だが確実に人間の息づかいを感じさせるその音楽運び。各変奏が持つ性格を丁寧に掘り下げながら、全体の構築にもブレがない。

 

そして特筆すべきは神奈川フィルの応答力である。あのオーケストラがここまで成熟したサウンドを紡ぎ出すとは──。筆者の記憶に強く残るのは、十数年前、同オケがエルガーの交響曲第1番を演奏した際、練習番号33の大テーマで明らかに一拍早く飛び出すという失態があったことだ。だが今回はどうだろう。過去の印象は一掃され、むしろ「え? 神奈フィルってこんなにうまかったっけ?」という驚きが残った。

 

ウォンの指揮はエルガーの美質――重厚でありながら繊細、内に情熱をたたえた英国的抒情――に見事に寄り添っている。鋼のような骨格と、羊毛のような柔らかさが同居した音楽。いわゆる「やってはいけないエルガー演奏」の罠、すなわちクライマックスに至る前に感情的に頂点を迎えてしまう“過剰表出”にも、彼は一切陥らない。構築のバランス、テンポ設計、アゴーギクの繊細な揺れ……そのすべてが理に適い、しかし冷たさとは無縁である。

 

過去の巨匠の表現と比べてみると、N響を指揮したシャルル・デュトワの《エニグマ》が思い起こされた。あの時のデュトワの演奏は、実演で体験した中でも白眉であったが、それに匹敵するものが、いまウォンの指揮によって再現された。

 

この日、実演でその場に立ち会えた聴衆は、なんと幸福だったことだろう。本国のエルガー協会にもぜひ紹介したい演奏。エルガーをただ「演奏」するのではなく、「理解し、愛し、共有する」ことができる若き才能が、ここに確かに存在したのだ。

 

 

 

 

カーチュン・ウォンとエルガー再解釈の現在性:2019年《エニグマ変奏曲》の演奏をめぐって

 

エルガー演奏の歴史を論じる際、その中心をなすのはボールト、バルビローリ、エルガー自身の録音をはじめとした20世紀中葉の英国伝統派による解釈であるが、21世紀に入り、エルガー像の再構築が徐々に進んでいることもまた見逃すことができない。その文脈において注目すべき演奏のひとつが、2019年11月16日に横浜みなとみらいホールにて行われた、カーチュン・ウォン指揮、神奈川フィルハーモニー管弦楽団による《エニグマ変奏曲》である。

 

ウォンはこの演奏において、20世紀英国の伝統的解釈に対する安易な模倣に陥ることなく、精緻な構築性と豊かな感情のバランスを高度に両立させた表現を示している。彼の指揮は全曲を暗譜で統御しながら、各変奏の性格描写において細部への意識が徹底されており、ことに第9変奏「Nimrod」におけるクライマックスへの蓄積と制御された高揚には、楽曲構造への深い理解が窺える。また、後述する「やってはならないエルガー演奏」の典型的誤謬――すなわち過度に早期の感情爆発によって構築的クライマックスが形骸化する問題――を的確に回避している点も評価に値する。

 

この演奏のもうひとつの鍵は、神奈川フィルの著しい演奏力の向上である。十数年前、同団が演奏したエルガーの交響曲第1番では、第4楽章クライマックスにあたる練習番号33での不正確なエントリーが記憶に残るが、今回の《エニグマ》では、全体にわたって統率がとれ、かつニュアンス豊かなアンサンブルが実現されていた。これは近年の日本オーケストラ界における技術水準の上昇を象徴する事例のひとつと位置づけられる。

 

ウォンのこの演奏は、デュトワがNHK交響楽団と残した《エニグマ》演奏(1980年代後半)と構築的アプローチにおいて共通する美質を備えている。両者に共通するのは、「抑制された情熱」とでも言うべき、制御された内燃型の音楽的エネルギーであり、これはエルガーの音楽が持つ英国的美徳(restraint, dignity, nobility)を体現するひとつの形ともいえよう。

 

現時点ではこの演奏の録音は商業媒体として残されていないが、今後の研究・比較演奏史において、ウォンのアプローチは21世紀のエルガー再解釈における重要な一例として記録・分析されるべきものである。

 

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