オーマンディのエニグマ
エルガー:エニグマ変奏曲 op.36
ユージン・オーマンディ指揮 ボストン交響楽団
ライヴ録音:1964年7月19日 タングルウッド
エルガー作品のアメリカにおける普及に貢献した人物として、ユージン・オーマンディの名前は決して避けて通れない。CBSレーベルでの一連のエルガー録音――それはある種の“エルガー全集”ともいえる規模であり、当時のアメリカ音楽界においてエルガーの存在を定着させる上で、大きな役割を果たしたことは疑いない。しかし、それらの演奏に通底するある種の「距離感」――エルガーという作曲家とオーマンディという指揮者の間に横たわる美意識の乖離――は、今回の《エニグマ変奏曲》ライヴにおいても例外ではなかった。
1964年、タングルウッドでのボストン交響楽団とのライヴ録音における《エニグマ変奏曲》。その冒頭「主題」が放たれた瞬間から、ある種の違和感は否応なく浮かび上がる。エルガーがこの導入部に込めた微細なニュアンス――ブルックナーの交響曲の冒頭に感じられるような“無”からの発露、あるいは霧の中からゆっくりと姿を現す彫像のような気配――が、ここには希薄である。むしろ印象は、蛇口をひねったかのような即物的なサウンドの噴出。それは機械的ですらあり、エルガーの書いた「沈黙の詩学」とは明らかに別の次元のものである。
この演奏において顕著なのは、サウンドの“明快さ”と“輪郭の強調”である。アンサンブルは引き締まっており、音響の造形そのものは立派だ。しかし、それがエルガーの音楽に本来求められる“多層的陰影”や“感情の微細なうねり”に結びついていない。変奏ごとに展開される人間模様――例えば「Nimrod」に漂う敬愛と沈思、「Dorabella」に宿るはかなさ、「Troyte」の爆発的活力――それらはすべて、表層を滑るような響きによって、どこか単調で一面的な印象にとどまってしまう。
そもそもオーマンディのエルガーにおける最大の特徴は、どの作品にも共通する「情緒の平板さ」にある。これは、彼の他のレパートリー――例えばチャイコフスキーやラフマニノフなどで聴かれる華やかさ、スムースな流れと濃密な響きが効を奏する場合もあるだろう。しかしエルガーにおいては、そのようなアプローチが逆に作曲者の美学――すなわち節度、抑制、感情の内省的表現――を失わせる方向へと作用してしまっている。
このような違和感は、単なる演奏解釈上の問題にとどまらない。そもそも、オーマンディ自身がどこまでエルガーという作曲家に共感を抱いていたのか――そうした根本的な問いを突きつける演奏でもある。CBS上層部の意向により、録音ラインナップの一貫としてエルガー全集が進められた、という仮説さえ頭をよぎる。
それでも、繰り返すように、オーマンディのエルガー演奏に功績がなかったわけではない。むしろ彼の残した録音群によって、エルガーがアメリカ本土で広く知られるようになったという歴史的事実は、正当に評価されるべきであろう。だが、芸術的共鳴の深さ――その点においてオーマンディの演奏は、やはり“距離を置いたままの再現”という印象を拭えない。
この1964年の《エニグマ変奏曲》もまた、そのことをあらためて感じさせる演奏であった。