愛の音楽家エドワード・エルガー

愛の音楽家エドワード・エルガー

大友/東響の「神の国」(2003)

【展望編】

 

 最近、英国音楽の紹介に力を入れている東京交響楽団の演奏会でエルガーの大作オラトリオ「神の国」が演奏される。記録によると、日本でこの曲が演奏されるのは3度目になる。エルガーにとっては最後のオラトリオとなったこの作品は、文字通りエルガーの宗教曲の集大成というべき壮大なスケールを有する。ある意味エルガーの音楽の真髄が最もつまった作品であると個人的には思っている。エルガーのパトロン的存在であったフランク・シュースターは「この『神の国』に比べれば『ゲロンティアスの夢』などはアマチュアのレベルだ」と、エイドリアン・ボールトに話している。ではあるが、その反面一歩聴くべきポイントを誤ってしまうと、実に退屈に聞こえてしまうという危険性をも孕んでいる。この辺はブルックナーの交響曲やRVWの田園交響曲と似ているような気がする。フィーリングが合えばとことんまで愛せるが、合わないと退屈極まりなくなってしまう。そこで、演奏会を聴きに出かける前に予習がてら、聴きどころなどのポイントを抑えておきたいものである。

 

●演奏会データ
  2002年3月9日(土)
  東京交響楽団 第61回東芸シリーズ
   エルガー作曲 オラトリオ「神の国」作品51
    指揮:大友直人
     ソプラノ:佐藤しのぶ
     メゾソプラノ:永井和子
     テノール:福井敬
     バリトン:福島明也
     合唱:東響コーラス
      合唱指揮:辻裕久
       管弦楽:東京交響楽団

 

●作品データ
  構成:前編(約55分)、後編(約40分)
  初演日時:1906年10月3日
  初演場所:バーミンガム
  初演指揮者:作曲者
  テキスト:聖書をもとにして作曲者の自由な言葉付けによる
  献呈:AMDG(Ad Majorem Dei Gloriam)=神の偉大な栄光のために

 

●録音リスト
  1. A. Boult盤(1969年EMI CMS7 64209 2)
  2. L. Slatkin盤(1987年RCA R30C-1067-68)
  3. R. Hickox盤(1989年Chandos CHAN8788/9)
  各盤タイミング参照

 

●日本国内における演奏データ
1.1983年5月13日 東京・厚生年金会館
  フィルハーモニア合唱団第62回定期
  指揮:山口貴
  曽我栄子ほか
2.1993年11月30日 東京・オーチャード・ホール
  東京アカデミー合唱団第35回定期
  指揮:国分誠
  林ひろみほか
3.2002年3月9日 東京芸術劇場
  東芸シリーズ第61回
  指揮:大友直人
  佐藤しのぶほか

 

 

●作曲の背景

 

1.英国オラトリオの伝統

 

 英国には1760年代頃よりオラトリオ演奏の伝統が各地にある。例えば、バーミンガム、リーズ、ウースター、ヘリフォード、グロースターなどの音楽祭が名高く、この伝統は今に至っている。そんな伝統の中、ヘンデルの「メサイア」、メンデルスゾーンの「パウロ」「エリア」、ドヴォルザークの「レクイエム」「スターバト・マーテル」などが生まれている。この流れはエルガー以降にも引き継がれ、RVW、ディーリアス、ホルスト、ウォルトン、ブリテン、ティペットなどが優れたオラトリオを残している。
 バーミンガムの音楽祭は特にエルガーにゆかりが深い。1900年には「ゲロンティアスの夢」、1903年には「使徒たち」、1906年には「神の国」を、同音楽祭のために作曲している。そして、これらの作品は現在もスリー・クワイヤ・フェスティヴァル(3大合唱祭)では恒例のレパートリーとして定着している。

 

 

2.エルガー宗教音楽の集大成

 

 エルガーの家庭は、父の代よりローマ・カトリックの家系であった。父は楽器店を経営するかたわら、近くのセント・ジョージ・ローマ・カトリック教会のオルガニストを務めており、いつしかエルガー自身も同教会でオルガンを弾くようになり、同時に同教会のミサのための宗教曲を作曲するようになる。
 そして1866年にウースター大聖堂で演奏された「メサイア」を聴いた当時9歳のエルガーは強い感銘を受けたという。また1884年には同聖堂で自作の「スターバト・マーテル」を指揮したドヴォルザークの棒の下、エルガーもオーケストラの一員としてヴァイオリンを弾いていた。これらの体験が後にエルガーが大規模な宗教曲を作曲する際に少なからず影響を与えた。
 そして、徐々に名を上げて行ったエルガーの元に各地の音楽祭から作曲の依頼が来るようになり、「ゲロンティアスの夢」「使徒たち」「神の国」などの大作が誕生する。エルガーがこれらの宗教作品を作曲するバックボーンとなった体験として、少年時代に聞いたリトルトン・ハウス校の校長フランシス・リーヴの言葉がある。「キリストに仕えた使徒たちは、特別家柄も良かったわけではなく、高い教育を受けたわけでもなく、諸君と変わらないごく普通の人たちだった」という話を聞いてから、エルガーはキリストの使徒に関する興味を持ち続けていた。1900年にバーミンガム音楽祭から作曲の依頼を受けた時、エルガーはこの使徒を題材にした作品を作曲しようと考えた。実際、時間的余裕がなかったので、この案は諦めざるをえなかったが、もう一つ温め続けていたニューマン枢機卿の「ゲロンティアスの夢」を作曲することした。
 その3年後、エルガーは長年の構想を実行に移し始める。この計画では「使徒たち」「神の国」「最後の審判」という3部作になり、3作とも完成の暁には3日連続での演奏を考えていたようだ。この辺はエルガーが敬愛していたワーグナーの楽劇の影響が見られる。また作品中にライトモチーフを多用する手法もワーグナーに倣っている。しかし、「最後の審判」は結局完成することはなかった。「神の国」はその中でも、緩除楽章的な存在で、全編穏やかな曲想が続く。エルガーの作品の魅力は緩除楽章にある、と言われるだけに彼の作品の醍醐味が多分に詰まっている。個人的な意見であるが、エルガーの全作品中でも美しい部分が最も詰まっている曲だと思う。その反面、起伏に富んだドラマティックな展開がないために下手をすると退屈に聞えてしまう可能性もあるのだが。
 3部作の最後になるはずであった「最後の審判」がなぜ作曲されないままに終わったのか?ちょうどこの頃エルガーの作曲家として名声が高まり忙しくなってしまったということもあったが、彼自身「神の国」で、ある種やるべきことをやり尽くしたというような感を抱いていたようだ。さらには「標題のない管弦楽作品こそ最上の芸術である」と公言していたエルガーにとって、交響曲というもう一つの大きな目標に向かって始動する時期でもあった。下記の表の通り、この「神の国」の完成までエルガーは比較的短い周期で宗教作品を作曲し続けているが、その後、その頻度は少なくなり、規模も小さなものになってくる。同時に彼の内面における信仰心にも何らかの変化があったことは事実だろう。それだけに、この「神の国」は、彼の宗教作品の頂点に位置するものであると考えることができる。
 初演は成功に終わり、翌日の「バーミンガム・メイル」紙で「サー・エドワード・エルガーは彼の作品を指揮しながら感極まり、演奏中に何度も涙が頬を伝わって流れた」と報じている。この涙には理由がある。ちょどこの作品が完成する直前、彼は敬愛する父親ウィリアム・ヘンリー・エルガーを失っている。更には、その3年前の前作「使徒たち」を作曲した年には、母アンが亡くなった。これら2つのことを同時に思い出していたものと思われる。これら2つの大作を作曲した年に愛する人を失ったという偶然的な出来事が、彼の心に引っかかり、結局「最後の審判」を完成させることを躊躇したという推測は考え過ぎだろうか?

 

 

                声楽を伴うエルガーの主な宗教曲

 

作曲年作品名備考
1880-98Salutaris Hostias 1-3
1887Pie Jesu1902にAve Verm Corpusとして改作
1887Ave Maria1907改作
1887Ave Maris Stella1907改作
1892The Black Knightカンタータ
1896The Light of Life別名Lux Christe
1896Scene from the Saga of King Olaf
1897The Banner of St. George
1897Te Deum & Benedictus
1898Caractacusカンタータ
1900The Dream of Gerontius
1903The Apostles
1906The Kingdom
-The Last Judgement未完
1911O Hearken Thou
1912Great is the Lordアンセム
1912The Music Makersカンタータ
1914Give Unto the Lordアンセム

 

●作品の構成

 

 「神の国」は前編と後編に大きく分かれるのだが、全体を通して5つの部分からなっている。この5つの部分が、In the Upper Room→At the Beutiful Gate→Pentecost=In the Upper Room→The Sigh of Healing=At the Beutiful Gate→The Upper Roomというように全体的に美しいアーチを描くべくシンメトリックな構成となっている。エルガーは、この手法を他の作品、例えば「ゲロンティアスの夢」などにも多用している。
 そしてワーグナーの影響、特に「パルシファル」の影響を受けているこの作品では、ライトモチーフが効果的に扱われている。中には前作「使徒たち」から引き継がれているものある。「Sir Edward Elgar The Kingdom Analytical & Descriptive Notes」 (Novello)の中でアウグスト・イェーガー(「エニグマ変奏曲」第9変奏ニムロドで描かれている人物)は79のライトモチーフを分析している。中でも印象深いのがイエスを表す清澄なモチーフが全編に渡って登場し、正に神の奇跡を連想させるようだ。また全体の最大のハイライトは何と言っても第4部The Sigh of Healingで歌われる聖母マリアの美しいシェーナ「日は沈みぬ」である。この美しいアリアは、「ゲロンティアスの夢」での天使の告別と双璧をなすべく感動的な曲である。特にイソベル・ベイリーがこの曲を歌っている1947年の録音は素晴らしい(CDLX7042=注:全曲録音はない)。筆者もこの演奏を聴いて「神の国」が好きになったという経緯があるくらいだ。今回は日本を代表するソプラノ佐藤しのぶがこれを歌うわけであるが、正に適任者と言えるだけに、ぜひ注目してほしいものだ。

 

 

●「神の国」のストーリー展開

 

とき:イエスがゴルゴタの丘にて処刑され、その後復活し、昇天したあと
登場人物:ペテロ、ヨハネとその他の使徒たち、マリア、マグダラのマリア、および信心深き女たち、会衆

 

第1部 アッパールームにて
 使徒たちと信心深き女たちが、階上の部屋に集まり、祈りを捧げている。そして、彼らは欠員となったユダの代わりを決めるべくクジをひく。そしてマシュアスが選ばれ、一同「おお、汝ら祭司たちよ」と合唱する。
第2部 美しき門にて(ペンテコステの朝)
 かつてイエスが目の不自由な者や足の不自由な者を癒した美しき門と呼ばれる場所で、マリアとマグダラのマリアが二重唱を歌い回想している。
第3部 ペンテコスト (アッパールームにて)
 ペンテコストの日となり一同が集まる。すると聖霊の力により皆があらゆる国の言葉が話せるようになる。イエスの死後、最初に起きた奇跡である。
第4部 治癒のしるし (美しき門にて)
 さらにペテロが「イエス・キリストのみ名において立ちて歩め」という言葉で、足の不自由な者が神を祝福しながら門の中に入っていく。それを見て驚くイスラエルの人々。するとこれらの奇跡を快く思わない祭司とサドカイ人がペテロとヨハネを逮捕してしまう。マリアは彼らを案じて美しいアリアを歌う。
第5部 アッパールームにて
 釈放されたペテロとヨハネを囲み一同が集まっている。釈放のいきさつをペテロとヨハネが一同に聞かせる。一同はさらに心を一つにすべくパンを裂いて聖餐を執り行い、新たな信仰を確認しあう。

 

 

●大友直人と英国音楽

 

 最近の日本人指揮者としては積極的に英国音楽を取り上げている大友直人は、2002年には「神の国」、交響曲第2番を演奏する。特に第2番は1997年1月にも指揮しているだけに期待が大きい。(交響曲第2番に関しても当HPで特集予定)。
 大友直人といえば、端整なマスク通りに冷徹に音楽を構築していくタイプという印象がある。大友直人の指揮の下、何度か合唱団で歌った経験からこういうイメージを抱いていた。かつて、「メサイア」の最後のアーメン・コーラスで、本番中合唱団員の間に思わず感動のようなものが走ったのか、高揚のあまり練習とは違った感じで盛り上がってきてしまった時があった。すると大友がそれを抑制しにかかったのである。ここは確かに感動を誘う高揚する場面なので、練習時とは違った感じになっても多少は構わないのでは?とも思われるところである。しかし、大友は何よりもアンサンブルが乱れるのがイヤだったよう(に見受けられた)だ。「この指揮者はいつもこんな感じで割りと制御するタイプなのかな」と思っていた。
 ところが、別の「メサイア」の演奏会時のアーメン・コーラスでは、逆に「やれ、やれ!」っていう感じで煽ってくるではないか。この日の公演もまたいつにも増して観客のノリがよく異常な盛り上がりであった。特に「ハレルヤ」では、かなり多くのお客さんが立ち上がり、中には歌っているお客さんまでいた。そして全曲終了後には予定にもなかった「ハレルヤ」のアンコールを指揮者の判断で急遽やることに。今度は自然に観客総立ちで合唱参加である。会場全体に何とも言えない感動が走り、筆者の合唱生活の中でも忘れることのできない演奏会となった。この時「珍しいな大友先生がこんなことするなんて」というオケの団員同士の会話が聞こえたのが印象に残っている。
 この時に思ったのであるが、大友直人という指揮者は常に「クール」なのではなく、必要があれば「燃焼してみせる」こともあるタイプなんだと。例えば、東響定演で振ったエルガーの交響曲1番と2番とも、バルビローリ的な驚くべき燃焼度を見せていたし、RVWの「ドナ・ノーヴィス・パーチェム」もそうだった。こういう時の大友のパワーはスゴイ。団員どころか観客までも引っ張ってしまう吸引力がある。今度の「神の国」はどうだろうか?大友直人の「燃焼モード」に期待したい。

 

 

【演奏評編】

 

 海外誌などで見かける演奏評風に、今回の演奏を私なりに評価した場合以下のようになるのではないだろうか。

 

大友/東響の「神の国」(2003)

 

 全体的には、実演で「神の国」を聴いているという幸福感に浸りっ放しの100分間であり、この曲でこれだけの観客を集めたというのは凄いことだと思う(空席を除けば満席!)。93年オーチャード・ホールでの公演時はガラガラ状態だっただけに、当時よりもより受け入れやすい環境になりつつあるという感触があったのは事実。
 マエストロ大友は期待通りの仕事を成し遂げたくれた。いつもながらの見事なフレーズ造りに加え、音色のバランスもほどよくブレンドされており、テンポも理想的といえよう。同様のアプローチで、「ゲロンティアスの夢」や「使徒たち」などを指揮したら、さらに感動的な演奏をしてくれるのではないだろうか。
 そのマエストロの棒に最もよく反応していたのが東響コーラスだ。さすがに同コーラスの売り物の一つであった「暗譜」をやめてしまったが、むしろ暗譜の時よりも堂々とした感があり良かったように思う。比較的合唱を歌う上では発音しづらい英語の発音の子音がよく聞き取れ、練習量の豊富さを物語っている。この長丁場のスタミナ配分もよく調整されていた。
 英国音楽の音色には最もよくマッチすると言われる東響も充分に本領を発揮していた。エルガーのメロディアスな旋律を美しく歌い上げた弦楽器郡、そして素朴さをよく表現していた木管郡が印象的だ。特筆すべきはハープ、オルガンなどの単独楽器が実演ならではの効果を上げていたことである。こればかりは録音を聴いてもわからない醍醐味だ。この曲は、やはりこういった聴き方をしなければならないということを痛感させられた。決して彼ら(彼女ら)は脇役ではなく、とても重要な部分を担っている。特にエルガーがオルガンを挿入する場合、ここ一番という部分に扱うことが多いような気がする。例えば、「エニグマ変奏曲」でのEDU、P&C1での最後、交響曲第2番第4楽章の最後、序曲「コケイン」での大聖堂の描写など。特に、彼が強調したい部分なのではないだろうか?しかしオケ全体の評価が*****のExcellentではない理由は後述する。
 次に今回一番ギャラが高かったはずのソリストたち。残念ながら彼らは、果たして今回この曲に挑むにあたり、どれだけ曲を理解して臨んだのかいささか疑問な部分が見受けられる。もちろん、日本を代表するナンバー・ワン・クラスのソリストたちの歌唱は見事で、こと技術的には何の文句もつけようがない。彼らにワーグナーやヴェルディを歌わせたら、正に見事な演奏を聞かせてくれるに違いない。しかし、この曲を同じように歌っては曲が活きてこない。例えば、声量豊かな佐藤しのぶのドラマティックなまでにヴィヴラートを聞かせたシェーヌには失望してしまった。あれでは祈りの気持ちが伝わらないばかりか、やたら芝居がかった大袈裟な泣き節にしか聞こえないのだ。あれだけの実力の持ち主ゆえに「こんなもんじゃないだろう!」という気持ちが拭いきれない。「あなたがやらないで他に誰がやるの?」と佐藤しのぶ本人には言いたい気持ちだ。最も楽しみにしていた部分ゆえ、それに思い入れが特別に強い故、手厳しいことを書かなくてはならないが、次回、万全の準備をもってもう一度聞いてみたいのだ。その過剰なまでのヴィヴラートに付き合ってしまったコンマスのヴァイオリン・ソロのためにオケ全体にとって減点となってしまったのは残念。ぜひイソベル・ベイリーの録音を一度聞いてみて欲しい。全体的なベクトルはとても良い方向に向いていた中、こういったところのベクトルが一致していなかったように思う。
 普通の海外誌の評価はソリストまでで終わりだが、私独自の評価として、これにAudience=観客という一項を加えたい。演奏とは演奏者が聴衆に対して一方向に放たれるだけで終わるものではないと私は考える。その演奏に対する観客のリアクションも含めて出来上がった、その場の雰囲気をも含んだものが演奏会であると考えている。いわゆる波長が合うか合わないかとも言い代えることができると思う。この曲は、(ワーグナーにおける「パルジファル」のように)ある意味エルガー作品の奥義的な存在であるだけに、聴く側にもそれなりの準備が必要となってくる。ある程度の武装なしでこの曲に挑んだ場合、大抵は遭難して睡死してしまう可能性が強い。だからこそネットで特集を組んでキャンペーンを張った。その効果があったのかどうかわからないが比較的観客の反応は好意的に見えた。居眠りしている観客もそんなにいなかったようだし・・・。この辺は先日の日フィルの時と対照的。後に「あれは名演奏だった」と言われるような演奏会の雰囲気を作り上げるには、演奏者ばかりでなく聴衆も勉強が必要なのである。これが私の持論だ。その意味で今回はとてもよい雰囲気に包まれていたように思う。
 しかし、ただ一点だけ注文をつけたい。曲が終わった時の、あの拍手のタイミングはいくら何でも早すぎる。あそこはもう少し静かに余韻に浸っていたいところ。それをたった一人のフライング拍手によって打ち砕かれてしまった気分。自分はこの曲がここで終わるのを知ってのだということをアピールしたいのではないかと思いたくなってしまう。それがなければもう一段階上の評価を与えたかった。
 近年、エルガー作品が扱われる頻度が増えて、よいエルガー演奏者が増えてきたのは喜ばしい限りである。指揮者では尾高、大友、秋山など。オケでは東響。ヴァイオリンの加藤など。しかし、ふと気が付くとエルガーを歌って定評のある声楽家がまだ出てきていないことに気が付いた。これは今後の課題かもしれない。

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