再出発・・・合唱音楽の里

サリヴァンとエルガー

サリヴァンとエルガー

 

19世紀末「パーセル以来メジャーな作曲家が出て来ていない音楽の空白地帯」という不名誉な誤解を受けてしまった英国。
そこで王立音楽院などを設立し自国産の作曲家を育てる国家プロジェクトが始動した。
プロジェクト発足時、英国でのトップ作曲家はチャールズ・スタンフォード、ヒューバート・パリー、アーサー・サリヴァンの3人。
彼らは教育者、指導者としても順調に結果を出し始める。

 

しかし、そんな国家プロジェクトとは何の関係もないウースターという地方からエルガーが突然登場し、あっという間に世界的名声を獲得する作曲家へと登りつめていった。
それに反感を抱いて終始エルガーに辛辣な態度を取り続けたスタンフォードに対してパリーとサリヴァンは、エルガーのことを好意を持って受け入れた。
特にエルガーはサリヴァンには特別な愛着を抱いていた。

 

彼らが出会ったのは二度。
1889年、まだ駆け出しで無名のエルガーに対してサリヴァンは当時の大作曲家である。コヴェントガーデンのプロムナードコンサートでエルガーの作品が試演されることになっていた。そこに突然サリヴァンが訪れ、急遽彼のオペラのリハーサルが行われることになりエルガーの作品の試演は中止となってしまった。この時は二人は明確に顔を合わせたわけでなくニアミスのような状況であった。
しかし、エルガーは次にサリヴァンに再会した時に「二度目の出会い」と言っているのでお互いの顔は見れたのではないかと推測される。
ちなみにこの時、試演されるはずだった作品は組曲ニ長調とセヴィリアーナであった。一方、サリヴァンがリハーサルを行なったのは「ゴントリヤー」だと思われる。
もちろう、エルガーは落胆したのであるが、サリヴァンには一目置いていたエルガーなので、このことでサリヴァンを恨むようなことは一切なかった。むしろ、エルガーは生涯に渡ってサリヴァンに対するリスペクトの弁を続けていたと、彼の娘キャリスが証言している。

 

次に彼らが顔を合わせたのは1898年。エルガーの「ガラクタクス」が初演されたリーズ音楽祭でのこと。
この時にエルガーは9年前の出来事をサリヴァンに打ち明けた。すると「何だ、一言キミだと言ってくれれば私は喜んでキミにリハーサルの時間を譲ってあげたのに」とサリヴァンは答えた。
この言葉は社交辞令では決してない。彼らが対面したのはたった二度だけだが、サリヴァンが没するまで二人は親密な書簡を交わし合っていた。そこにはお互いへのリスペクトを感じさせる内容に満ちている。

 

1962年BBC制作のケン・ラッセル監督によるドキュメンタリーではこの部分だけが取り上げられ、その部分だけをもってして「エルガーとサリヴァンは仲が悪かった」というミスリードが発生したりしていたが、制作された年代が古くエルガー関係の資料もあまり整備されておらず、さらにラッセルの偏見的手法もあって、今となってはあのラッセルの作品は、かえって研究の邪魔になるとさえ言われている。まるで梶原一騎の「プロレス・スーパースター列伝」のような存在にさえなっているのである。

 

エルガーが、どれほどサリヴァンを意識していたかは、エルガーの作品の所々にサリヴァンの引用を見つけ出すことができるということに表れている。

 

「ゲロンティアスの夢」(1900)の冒頭で歌われる「Jesu Maria」というキリストの動機の部分。この原型をサリヴァンのオラトリオ「ゴールデンレジェンド」(1866)の中に見出すことができる。

サリヴァンとエルガー

 

さらにエルガーのアーサー王組曲(1923)アーサーとランスロットのテーマは、サリヴァンの劇音楽「アーサー王」(1895)とインペリアルマーチ(1893)の中に見出すことが出来る。

サリヴァンとエルガー

 

これだけではない。
エルガーの「アーサー王」でのアーサーの死の場面は、サリヴァンの「アーサー王」での葬送行進曲にモデルが見られる。

サリヴァンとエルガー

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