愛の音楽家エドワード・エルガー

「大宇宙」としてのトムソンのエルガー

ライデン・トムソン(Bryden Thomson)。日本ではほとんど知られていないにもかかわらず、英国音楽界では確かな足跡を残した指揮者である。もし彼が早逝せず、さらに長く活動していたならば、エルガー全集の制作にも深く関わっていたであろうことは想像に難くない。とりわけ《ゲロンティアスの夢》(The Dream of Gerontius)を録音する機会なく、その生涯を閉じたことは、多くのエルガー愛好家にとって惜しまれる出来事だ。

 

しかし、その代わりに残された《交響曲第1番》《交響曲第2番》のロンドン・フィルとの録音は、今日でもエルガーの最重要演奏の一つとして語られるべき水準にある。

 

 

■ 緩徐の哲学:トムソンのテンポ設定

 

トムソンの最も特徴的な解釈は、テンポの選択とフレージングの設計感である。
こうした演奏は、しばしばシノーポリ(Riccardo Chailly)の“遅いエルガー”と比較されるが、両者の間には本質的な違いがある。

 

シノーポリ
 内部へ凝縮し、内的ドラマを深化させる「内向きの遅さ」

 

トムソン
 外的空間を抱擁し、「大宇宙」へと漂い出すような「拡張的遅さ」

 

言い換えれば、シノーポリが内的時間の濃縮を志向するのに対し、トムソンは外的時間の拡散を志向する。その結果、トムソンのエルガーはまるでブルックナー的な宇宙観をも伴って聴こえるのである。

 

 

■ 幽玄としての響き ― テンポと空間

 

トムソンが採用した遅めのテンポ設定は、単なる個人趣味ではない。録音当時、ロンドン郊外トゥーティングのオール・セイント教会を会場に選んだこと自体が、音響空間の計算された選択であったと推察される。長い残響と豊かな倍音は、広いテンポを許容し、その響きを十分に鳴らすための共犯者となっている。

 

この環境が与える効果は単純な“残響の美しさ”ではない。むしろ、時間の伸びと重なりが、不可視な領域を覗かせる。

 

つまり、トムソンは録音空間を単なる舞台ではなく、音楽の延長として設計したのである。

 

 

■ 交響曲第1番――陽光と霧の間

 

トムソンの交響曲第1番は、ゆっくりとした進行感の中にも明晰な構造感を失わない。

 

 主題の登場は決して急がれず

 

 和声の変遷はクリアに聴き取れ

 

 フレーズの終着は曖昧さを残しながら静かに開く

 

その結果、この曲は「叙情と構築の同時進行」として提示される。
エルガーという作曲家は、しばしば“叙情の巨匠”と評されるが、トムソンはこの曲を叙情のための構築物として提示する。
その効果は、ゆるやかに陽が差し込む風景のようでありながら、曇天の陰影を常に伴う。

Youtube再生リスト

 

■ 交響曲第2番――大気のうねり

 

第2番については、テンポの遅さと空間の豊かさが、音楽そのものを空気の流れとして感じさせる。

 

第1楽章は、旋律の連なりが空間の層として立ち上がり

 

第2楽章の葬送的主題は、過去と未来を等価化する

 

第4楽章では、主題が解きほぐされ、世界の表層と深層が同時に聴かれる

 

この交響曲はしばしば「呪文のようだ」と評されるが、トムソンはその呪文を外界へさらす。
世俗的な緊張ではなく、宇宙的な「持続」として提示するのである。

Youtube再生リスト

 

■ 逸脱せず、越境する

 

トムソンの「テンポの遅さ」は、単純な演出やデコラティブな装飾ではない。
彼は決してエルガーの精神を逸脱しない。

 

ここが重要だ。

 

極端なテンポや過度な装飾によって、作曲家の設計を破壊する演奏家は少なくない。だがトムソンは、テンポの拡大が意味する時間観そのものを、エルガーの精神論理として解釈した。

 

その結果、彼のエルガーは

 

「人間の時間」でも
「宗教的時間」でもなく
「宇宙的時間」へと響く音楽になる

 

のだ。

 

 

■ 評価と位置づけ

 

この録音は今日でもエルガー交響曲の有力候補として存在し続けている。それは単に「遅い」という外形的特徴のゆえではない。
時間の扱い方自体を一つの解釈空間として提示したという点で、他演奏とは明確に異なる。

 

シノーポリの内向的時間、デイヴィスの叙情的時間、バルビローリのスコア優先の時間。
それらと並べたとき、トムソンは

 

👉 **「外界/宇宙/持続」**の時間を立ち現わせる解釈者として位置づけられる。

 

これは、
エルガーという作曲家が内包していたながらく語られなかった側面を、音楽そのものの時間軸として体現した演奏だと言ってよいだろう。

 

 

 

ブライデン・トムソンのエルガーは、決して“情念表現の極致”ではない。
しかし、エルガーを「存在としての時間」に変換した演奏として、歴史的に価値がある。

 

 

トムソン盤は、単なる名盤の一つではなく、**エルガー解釈史における「大きな座標点」**なのである。

 

ブライデン・トムソン vs ジュゼッペ・シノーポリ

――二つの「遅さ」、二つのエルガー

 

エルガー解釈史において、「遅いテンポ」はしばしば論争の的となってきた。
その代表例が、ブライデン・トムソンとジュゼッペ・シノーポリである。両者はいずれも交響曲第1番・第2番において、平均的演奏時間を大きく超えるテンポを採用している。しかし、その遅さの質は、方向性も思想もまったく異なる。

 

同じ「遅いエルガー」で括ることは、両者にとってむしろ不正確ですらある。

 

 

■ シノーポリ:内向化される時間

 

シノーポリのエルガーは、徹底した内省から出発する。彼はエルガーを、エドワード朝的な外向的叙情の作曲家としてではなく、近代精神の裂け目を抱えた存在として捉えた。

 

 テンポは遅いが、音楽は常に内部へ収束する

 

 和声進行は分析的に掘り下げられ

 

 フレーズは「語る」というより「考え込む」ように処理される

 

特に交響曲第2番では、シノーポリはこの作品を「崩壊の予感に満ちた精神の記録」として扱う。

 

遅さは、空間を広げるためではない。思考を深め、感情を凝縮させるための遅さなのである。

 

その結果、シノーポリのエルガーは、しばしば

 

 重く

 

 密度が高く

 

 聴き手を内的独白へ引きずり込む

 

音楽となる。
これはほとんど精神分析的とも言えるアプローチであり、エルガーを20世紀的な不安の作曲家として再定義する試みであった。

 

 

 

■ トムソン:外界へ解放される時間

 

これに対して、トムソンの遅さは、内向化とは正反対である。彼のエルガーは、常に外へ、遠くへ向かって開かれている。

 

 フレーズは長く引き伸ばされ

 

 音は減衰しながら空間へ溶け

 

 響きは「意味」よりも「存在」として持続する

 

トムソンは、エルガーを心理劇として解釈しない。むしろ彼は、エルガーを時間と空間の作曲家として捉える。

 

その結果、交響曲第2番は、内面の苦悩ではなく、宇宙的な持続、不可視の大気のうねりとして響く。

 

シノーポリが「精神の奥底」を掘り下げるなら、トムソンは「精神を包む空間」を鳴らす。

 

 

■ 同じ遅さ、逆方向のベクトル

 

両者の違いを一言で言えば、こうなる。

 

 シノーポリ:遅さ=思考の密度

 

 トムソン:遅さ=空間の広がり

 

シノーポリの音楽は、遅くなるほど重くなる。
トムソンの音楽は、遅くなるほど軽く、遠くなる。

 

この違いは、終楽章において決定的に表れる。

 

 シノーポリ:終結は「理解不能な闇」へ沈む

 

 トムソン:終結は「無限の彼方」へ開かれる

 

同じエルガー、同じ楽譜、同じ遅さ。しかし、到達点は正反対なのである。

 

 

■ エルガー精神との距離

 

興味深いのは、どちらがエルガーの精神に近いかという問いが、簡単には答えられない点だ。

 

 シノーポリは、エルガーを「近代の悲劇的知性」として再解釈した

 

 トムソンは、エルガーを「時間を超えた存在」として再定位した

 

前者は、20世紀後半の知的文脈において極めて説得力がある。
後者は、エルガー自身が内包していたが、言語化されなかった側面を、音響として顕在化させた。

 

重要なのは、どちらもエルガーを矮小化していないという点である。

 

 

■ 二つの異なる「真実」

 

シノーポリとトムソンは、同じ山を、まったく違う方向から登った。
そのどちらが正しいか、という問い自体が無意味なのかもしれない。

 

むしろ彼らは、

 

 シノーポリ:エルガーの内的真実

 

 トムソン:エルガーの宇宙的真実

 

を、それぞれ極限まで押し広げた存在だと言える。

エルガー解釈裁判:テンポをめぐる争点整理

遅さは原典違反か?

 

 

本章で問われるのは、単純な好みや流行ではない。
「遅いテンポは、エルガーの原典に反するのか」
という、演奏解釈における根本問題である。

 

この問いは、エルガーという作曲家の特質ゆえに、ことさらに難解な様相を呈する。なぜなら、エルガーは「原典」を一義的に定義できない作曲家だからである。

 

【争点1】原典とは「楽譜」か「自作自演」か

 

まず陪審が理解すべき基本事項は、原典の定義である。

 

検察側(原典厳守派)の主張

 

 原典とは、最終的に出版されたスコアである

 

 テンポ指定、速度標語、拍数こそが作曲家の最終意思

 

 楽譜から逸脱したテンポ設定は、解釈ではなく改変である

 

この立場からすれば、極端に遅い演奏――特に演奏時間が自作自演やボールトの系譜から大きく乖離するもの――は、原典違反の疑いを免れない。

 

弁護側(自作自演重視派)の反論

 

 エルガー自身は、複数の録音でテンポを変えている

 

 同一作品においても、速い・遅いの両極が存在する

 

 作曲者自身が「演奏状況に応じた可変性」を容認していた

 

この立場では、原典とは固定された数値ではなく、実践の集合体である。

 

【争点2】エルガー自身は「遅さ」を否定していたか

 

次に問題となるのが、作曲者の美意識である。

 

確かに、エルガーはしばしば
「速すぎても、遅すぎてもいけない」
という趣旨の発言を残している。

 

しかし、彼は同時にこうも語っている。

 

「音楽は呼吸するものだ」

 

「建築的に正しくても、生命がなければ意味がない」

 

これは、テンポを絶対値ではなく、有機的な運動として捉えていた証左である。

 

実際、彼の自作自演録音には、

 

 明らかに推進力を重視した速い演奏

 

 空間に身を委ねるような遅い演奏

 

の両方が存在する。

 

よって、「遅さ」そのものが、作曲者の意思に反するとは断定できない。

 

【争点3】遅い演奏は構造を破壊するか

 

ここで検察側が最も強く主張するのがこの点である。

 

遅すぎるテンポは、
・楽章構造を弛緩させ
・推進力を失わせ
・感傷を肥大化させる

 

確かに、拙い遅さはエルガーを重く、冗長で、自己陶酔的に聞かせる危険がある。

 

だが、これは「遅さ」そのものの罪ではない。
構造を保持できない指揮の責任である。

 

トムソンの演奏が示したように、

 

フレーズが論理的に連結され

 

大局的アーチが保たれるなら

 

遅いテンポは、むしろ構造を可視化する。

 

【争点4】歴史的慣習は証拠能力を持つか

 

法廷に提出されるもう一つの証拠が、演奏慣習である。

 

ボールト以降の英国系指揮者のテンポ感

 

教会空間や残響を前提とした速度設定

 

エルガー自身が認めた慣例的改変

 

これらは、「楽譜外」でありながら、長年にわたり黙認されてきた事実である。

 

つまり、エルガー解釈においては、
慣習=準原典
という曖昧だが現実的な領域が存在する。

 

【最終弁論】遅さは違反ではなく、動機である

 

以上の証拠を総合すると、結論はこうなる。

 

 遅さそれ自体は、原典違反ではない

 

 問われるべきは「遅さの必然性」である

 

 構造・文脈・空間と結びついた遅さは、正当な解釈である

 

言い換えれば、

 

遅さは罪ではない。
罪になるのは、理由なき遅さである。

 

【評決(暫定)】

 

陪審に示される評決は、次の通りであろう。

 

「遅いテンポ」無罪

 

「思考なき遅さ」有罪

 

エルガーは、テンポを数値としてではなく、精神の運動として書いた作曲家である。
したがって、原典主義とは、速度を守ることではなく、運動の意味を裏切らないことにある。

 

この裁判は、まだ終わらない。
次に法廷に呼び出される証人は――

 

ガードナーか

 

ボールトか

 

それともエルガー自身か

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