交響曲第1番(1908) vs 交響曲第2番(1911)
エルガーの交響曲第1番と第2番は、構造的・精神的な面において意図的に対になるように設計された一対の作品である。両曲はいずれも大規模な4楽章構成を取り、共通する動機的展開、象徴性、そしてエルガー特有の「循環形式」を共有するが、その語り口、精神的地平は明確に対照的である。
第1番は、彼の生涯においてもっとも祝祭的な作品の一つであり、「広い人間愛の感情(a wide and generous spirit)」をたたえた序奏主題に象徴されるように、普遍的理想に向かって開かれた音楽である。イギリスの音楽的国民楽派の象徴とされることも多く、堂々とした主題は「行進曲的」性格を持ちながら、決して軍国的ではなく、エルガー自身の理想主義的世界観が昇華されている。第1楽章と第4楽章はこの主題を媒介としたアーチ構造を持ち、内包する緩徐楽章とスケルツォ楽章はそれに陰影を与える役割を果たしている。
これに対して第2番は、より個人的かつ内面的な作品であり、「精神的自叙伝」あるいは「レクイエム」としての性格が色濃い。エルガー自身が「僕の魂(the soul of me)」と述べたように、作品全体が極めて主観的で、象徴と変奏、そして自己言及的構造によって編み上げられている。第1番に見られた理想主義的光彩はここにはなく、代わりに夢幻的、追憶的、あるいは喪失の感情が濃厚に漂っている。
形式的にも、両曲は第1楽章に重厚な序奏を置く点で共通しているが、第2番の序奏はそのまま曖昧に主部へと移行し、楽章全体が「発展」ではなく「変容」によって展開していく印象を与える。第2楽章(リルボーン・スケルツォ)はエドワード7世の死を悼む音楽とされ、無窮動的なリズムと不穏な和声の中に弔意が漂う。緩徐楽章は第1番と同様に最も抒情的な部分であるが、第2番ではより長く、瞑想的で、「音楽の中の沈黙」が重要な要素として機能する。
終楽章においても、両者の違いは鮮明である。第1番の終楽章は、冒頭主題が凱歌のように回帰し、全体を統合する役割を果たすが、第2番のそれは回帰の意志を持ちながらも、決定的な確信には至らず、むしろ諦念や浄化をもって閉じられる。終結部のpppに至る弱音の消失は、エルガーの交響的語法における新たな境地であり、「静けさの中での肯定」を象徴している。
このように、交響曲第1番と第2番は「外向と内省」「理想と記憶」「始まりと終わり」「大衆性と個人性」という明確な対立軸のもとに配置される。前者がいわば「公的なエルガー」の音楽であるならば、後者は「私的なエルガー」の音楽であり、二つで一つの交響的自画像を成していると解することができる。