エニグマ変奏曲

愛の音楽家エドワード・エルガー

エニグマ変奏曲

 

  《エニグマ変奏曲(Variations on an original Theme "Enigma" op.36)》

 

 エルガーは、この作品にいくつかの謎かけを残した。まずそれぞれの楽章が友人たちを表しているのだが、エルガー本人は「個人的な事柄なので公表する必要はない」と初演時のプログラムに書いている。しかし、それらは後に比較的容易に解明された。
 「第1変奏C.A.E」はエルガー夫人のアリスであり、情熱的な盛り上がりとロマンチックな雰囲気が対照的なテーマだ。終曲のEDUでもう1度登場する。
 「第2変奏H.D.S.P」は前述のように、ネヴィンソンとエルガーの3人でトリオを楽しんだヒュー・ステュワート・パウェルがピアノのウォーミング・アップをする様子である。この曲のピアノ演奏版(マリア・ガルゾン盤)を聴くと、パウェルがどのようにピアノを弾いていたかという様子がモロに連想されて面白い。
 「第3変奏R.B.T」は、個性的な性格の俳優ロバート・バクスター・タウンゼントである。そのユーモラスな曲相から、その風変わりぶりが伺い知れるようだ。
 「第4変奏W.M.B」はワグネリアンの軍人ウィリアム・ミューズ・ベイカー。彼は威圧的で軍隊調の大声で喋り、横柄な性格であったようだ。
 「第5変奏R.P.A」は、詩人として有名なマシュー・アーノルドの息子リチャード・アーノルドである。真面目な話の間に不意をついてユーモアを織り交ぜてくる様子を描いている。
 「第6変奏Ysobel」は、エルガー音楽教室の生徒イザベル・フィットンである。最初ヴァイオリンを学んだが、ありふれているからという理由でヴィオラに乗り換えた。冒頭に現れるメロディはエルガーが彼女に課した練習用のメロディだという。1889年エルガーから、21歳の誕生日にピアノ曲《プレスト(Presto)》を献呈されている。
 「第7変奏Troyte」は、チェスの名手であり、建築家のアーサー・トロイト・グリフィスである。長身で細身の身体から「九柱鍼=ninepin」とニックネームをつけられていた。「バーチウッド・ロッジ」をエルガーのために見つけて来たのが彼で、以来エルガーとの友情はエルガーが亡くなるまで続いた。打楽器が大活躍する楽章で全曲中最も騒々しい曲である。エルガーがピアノをコーチしようとするが、なかなかうまくゆかない。最後はケンカ腰になってしまう様子が描かれている。或いは、トロイト自身の意見によると、サイクリング仲間だった2人がツーリング中雷雨にあい、あわてて木陰に避難した様子を描いているのではないかとのこと。建築家としての彼の作品は、ウースターシャー・ビーコンにある頂上碑、アビー・ゲート・ウェイなど今でも現存しているものも多いが、最も注目すべき作品は、現在エルガーとアリスの眠っているセント・ウルスタン教会の墓石であろう。
 「第8変奏W.N」はウースター・フィルハーモニーの事務員ウィニフレッド・ノーベリーである。彼女の明るい笑い声と彼女の住む18世紀に建てられた館「シェリッジ」を表現している。
 「第9変奏Nimrod」は、楽譜出版社のノヴェロ社に務めていたアウグスト・ヨハネス・イェーガーである。「ニムロド」とは「旧約聖書」の「創世記」に登場する狩猟者ニムロデから取られており、「イェーガー"Jaeger"」がドイツ語で「狩人」を意味するので、それがニックネームとなっていた。エルガーはイェーガーにこう書いている。「私は1つの変奏曲をスケッチした。それは1つの主題に基づいており、私はその作曲を楽しんだ。なぜならそれぞれに友人たちのニックネームをつけたから。君は『ニムロド』という名で出てくる」 「君の外見上の姿ではなく、清く正しく愛すべく誠実な魂を描いた」と。そして、ベートーヴェンの《ピアノ・ソナタ第8番『悲愴』》の緩除楽章について彼と語り合った時の記録である、とも述べている。ガルゾンが弾くピアノ演奏版で聴くと正にこの曲が《悲愴ソナタ》を下敷きにして書かれたということが実感できる。「英国人の最も愛するメロディ」とまで言われるほど全曲中最も美しく最も有名な楽章である。単独で演奏されることもしばしばあり、葬儀の際の曲としても演奏される。
 「第10変奏Dorabella」は、エルガー夫妻の友人ドーラ・ペニーである。モーツァルトのオペラ《コジ・ファン・トゥッテ》の登場人物ドラベラの愛称から来ている。弦によって表現されるトリルが彼女の口ごもった話し方を表している。その後彼女は第2変奏のリチャード・パウェルの夫人となる。1937年に「Edward Elgar : Memory of a Variation」という本を著している。
 「第11変奏G.R.S」はヘリフォード大聖堂のオルガニストのジョージ・R・シンクレア博士とその愛犬ブルドックのダンである。ある日2人がワイ川の川べりを歩いていると、ダンが川に転落してしまった。彼は流れに逆らって必死に泳ぎ、やっとのことで岸に泳ぎ着くことができた。それを見たシンクレアがエルガーに「あれに曲をつけてくれ」と注文した。最初の5小節に表れるパッセージがその答えである。
 「第12変奏B.G.N」は、第2変奏のパウェルとエルガーの3人でトリオを組んだチェロ奏者のバジル・G・ネヴィンソンである。独奏チェロが彼の穏やかで愛すべき性格を豊かに表現する。
 「第13変奏*.*.*」に関しては、未だに謎が残っている。一般にはメアリー・リゴン夫人であろうとする説が定説になっている。曲中ティンパニが船の汽笛を描写し、メンデルスゾーンの《静かな海と楽しい航海》が引用されているので「船旅」と関係があることが推測される。作曲当時リゴン夫人はオーストラリアへと旅立って行った。エルガーはこう語っている。「作曲当時、船旅で出会ったある婦人の名前の代わりにつけた」 しかし、このリゴン説に疑問を持つ研究者も多い。アリスと知り合う前の1883年頃に婚約を交わしていた相手ヘレン・ウィーバーではないかと推測する研究者もある。アーネスト・ニューマン、マイケル・ケネディ、ウルスタン・アトキンス、パーシー・ヤング、コラ・ウィーバーといった有力な研究家もこのウィーバー説を採っている。ヘレン・ウィーバーもまたニュージーランドへ船で旅立っている。
 「第14変奏E.D.U」は、エドワード・エルガー本人である。彼はアリスが名付けた「エドゥ」という愛称でよく呼ばれていた。曲はオルガンを含む大編成となり、友人たちとの友情を通じて確固たる自我を発見するかのように壮大なフィナーレを形成する。第1変奏のアリスと第9変奏のニムロドが再び顔を見せるのが印象的だ。初演時のフィナーレは現在のものとは違う形であったが、初演の後エルガーによって現在の形に書き変えられた。この初演版は1999年にR・ヒコックスによる復活演奏が行われている。その後、何種類かの録音がリリースされている(MIDIで再現した音源を巻末の付録CDで聴くことができます)。
 そしてこの曲には、更に大きな謎が隠されている。「全曲を通じて別の大きな主題があるのだが、それは実際には演奏されない。つまり主役は表舞台には全く登場しない」とエルガーは語っている。それについて、さまざまな推理が飛び交っており、英国国歌《ゴッド・セイヴ・クィーン》、《ルール、ブリタニア》、《オールド・ラング・ザイン(蛍の光)》といった、よく知られた曲ではないかという説。変わったところではモーツァルトの《プラハ交響曲》、グレゴリオ聖歌の《怒りの日》、スタンフォードの《レクイエム》の「ベネディクトゥス」という説。あるいは単に抽象的な「友情」といった言葉ではないか、あるいは各主題と対位法の関係にあるオリジナルのメロディではないか、など。これについては、まだまだ論議は続きそうである。

 

〔参考CD〕
*《エニグマ変奏曲》 バルビローリ指揮/フィルハーモニア
 最も暖かな情感を表現している録音。特に「ニムロド」での共感と愛情の溢れる比類のない演奏は一度聴いたら忘れられない。
Amazon.comの短縮URL http://tinyurl.com/55gjer
*《エニグマ変奏曲》 ガルゾン(P)
 第2変奏や第9変奏のように元々曲自体がピアノに関係があるので、ピアノ編曲版で聴いても違和感がない。
Amazon.comの短縮URL http://tinyurl.com/5uw9dt

 

 

〔《エニグマ変奏曲》のスコア〕
Amazon.comの短縮URL http://tinyurl.com/5g22bz

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