《威風堂々》第6番

愛の音楽家エドワード・エルガー

No one must thinker with it

1934年、交響曲第3番は完成することなく130ページにも及ぶスケッチ集を残したままエルガーは永眠してしまう。
死の直前、エルガーはリードに「これは私以外の誰にも理解できないであろうし、誰も手を触れてはならない(No one must thinker with it=「いじくり回してはならない」と言った)。楽譜は全て燃やして欲しい」と頼んだ。しかし結局リードは燃やすことはできなかった。
結果的にエルガーの作品は「いじくり回された」挙句今日完成を見ることになった。
そのお陰で我々は今日のエルガー/ペインの交響曲第3番に親しむことができているわけである。
エルガーの遺言は無視された形にはなっているのは事実。

 

エルガーほど作品が「いじくり回されている」作曲家は他にはあまりいないのではないか?とも感じている。

 

古くはモーツァルトの未完作品だったレクイエムをジュズマイヤー他の補完により完成した例やマーラーの交響曲第10番などがよく知られている。

 

しかし、エルガーの作品が「いじくり回される」例は、未完作品だけに限らないのが、特異な例なのかなと感じた次第である。()内は補完者名。

 

まず、純粋に未完作品が他者の手により補完されたものとしては、
交響曲第3番(アンソニー・ペイン)
ピアノ協奏曲(ロバート・ウォーカー)、
歌劇「スペインの貴婦人」(パーシー・ヤング)、
行進曲「威風堂々」第6番(アンソニー・ペイン)
などがある。

 

それ以外でスケッチの段階のものを作品として仕上げられた例もある。
3楽章によるピアノトリオ(ポール・エイドリアン・ルーク)
エルガーの主題によるワルツ(クリストファー・ポリーブランク)
エニーナ・ワルツ(デヴィッド・オーエン・ノリス)
スモーキング・カンタータ(デヴィッド・オーエン・ノリス)
ムチのような一撃(クリス・ゴダート)
などがある。

 

それだけでなくエルガーの場合は完成している作品にまで後の補完者の手により「いじくり回される」ケースがある。
せヴァーン組曲→オルガンソナタ第2番(アイヴォー・アトキンス)
オルガンソナタ第1番→管弦楽版=別称交響曲第0番(ユージン・グーセンス)
ピアノ五重奏曲→管弦楽版=別称交響曲第4番(ドナルド・フレイザー)
弦楽四重奏曲→弦楽オーケスラ版(デヴィッド・マシューズ)
交響曲第1番緩徐楽章→弦楽四重奏版(キム・ディーネルト)
まだあるかもしれない。思い出したら便宜追加していく。

 

それどころか、作曲者本人の手でチェロ協奏曲が「いじくり回される」可能性すらあったのだ。
1919年、チェロ協奏曲を出版する直前には、ウィンドフラワーへの手紙の中で、いっそこのチェロ協奏曲をピアノ協奏曲として出版してしまおうか、とまで書いている(つまりチェロ協奏曲はピアノ協奏曲となっていたかも知れなかったのだ)。しかし、さすがにそれは思い留まったようだ。でもちょっと聴いてみたい興味もある・・・。

 

で、まだこれだけではないのだ。
完成されている作品で特に補完されているわけではないのに後に別称で「いじくり回される」ケースすらある。
イギリス行進曲=行進曲「威風堂々」第0番
帝国行進曲=行進曲「威風堂々」第7番

 

おわかりいただけだろうか?エルガーの遺言がこれだけ無視されて「いじくり回されて」いる現状。
エルガーは怒っているだろうか?いや、たぶん「しょうがないねえ」と言いながらニガ笑いしていると思う。

 

それほどまでにエルガーという作曲家が愛されているという何よりの証ではないだろうか?
エルガーさんには申し訳ないが私も「いじくり回す」ことに賛成派である。

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