再びロンドンへ

軽やかさの中に潜む老騎士の陰影 ― ダニエラ・ムスカとトゥルク・フィルの《ファルスタッフ》

エルガー晩年の傑作《ファルスタッフ》は、その副題「交響的習作」の名の通り、単なる交響詩でも管弦楽組曲でもなく、エルガーの全創作を総括する“心理的肖像画”である。ここには単に喜劇的老騎士ファルスタッフの滑稽が描かれているのではなく、人間の誇り、虚栄、老い、孤独、そして最終的な諦念までもが凝縮されている。作品の深層を読み解くには、技巧と構成力に加え、劇的感覚と心理描写への鋭敏な洞察が求められる。

 

ダニエラ・ムスカ指揮、トゥルク・フィルハーモニー管弦楽団による2022年9月の演奏は、この作品の複雑な構造を鮮やかに整理しつつも、軽やかな筆致で描き出した好演である。ムスカは冒頭からテンポをやや速めに取り、ファルスタッフの若々しき“虚勢”を躍動的に表出する。弦楽のリズムは引き締まり、管楽器のユーモラスな断片が軽妙に交錯するさまは、エルガー特有のウィットをよく捉えている。

 

第2部「ハル王子の宮廷」においては、トゥルク・フィルの柔らかなアンサンブルが光る。クラリネットやファゴットが織り成す穏やかな諧謔味が魅力的であり、ムスカの指揮は決して感傷に沈まず、劇のテンポ感を常に保っている。中間部の夢想的な変奏においても、弦の内声を明確に響かせ、音楽の流れを見失わない点は見事である。

 

老境の影が訪れる「ファルスタッフの夢想」以降では、テンポをわずかに緩めながらも、音楽が過剰に重くならぬように制御している。ここにムスカの美徳がある。多くの演奏がこの部分を“悲劇化”しすぎる傾向がある中で、彼女はファルスタッフをあくまで人間的な存在として描き、晩年のエルガーが到達した“静かな人間理解”を感じさせる。

 

終結部の「死とエピローグ」では、トゥルク・フィルの弦が繊細なニュアンスで息づき、ファルスタッフの最期が決して悲嘆ではなく、微笑みを含んだ別れとして描かれている。この“微笑の死”の描き方に、ムスカの成熟した感性が明確に現れている。

 

総じて本演奏は、エルガー演奏としては珍しく、抒情よりも明晰さを優先し、劇的構造を端正に見せるアプローチである。しかし、その冷静さの背後に、エルガーへの深い敬意と共感が確かに息づいている。ムスカの指揮は、女性指揮者特有の柔軟な感性と、ヨーロッパ楽壇の新世代に共通する分析的知性とを兼ね備えたものであり、この《ファルスタッフ》を新しい時代の視点から蘇らせた好例といえる。

 

結論として、この演奏は“壮年期のユーモア”と“晩年の静けさ”を見事に共存させた現代的な《ファルスタッフ》であり、エルガー作品の新しい入口を示すものである。

 

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