日本における「エルガー暗黒時代」は再来するのか?
現在、日本におけるエドワード・エルガー演奏を牽引している指揮者として、まず挙げられるのは 尾高忠明、大友直人、そして 山田和樹の三人であろう。この三者の功績は極めて大きい。単にエルガー作品を定期的に取り上げてきたというだけでなく、日本のオーケストラ文化の中に「エルガーを演奏する感覚」そのものを根付かせてきた存在と言ってよい。
特に尾高忠明の長年にわたる英国音楽への献身、大友直人の劇的構築力、山田和樹の国際的視野を伴った推進力は、日本におけるエルガー受容を大きく前進させた。仮にこの三人を“Aグループ”と呼ぶなら、その水準は現状、他を明確に引き離している。
しかし問題は、その先である。
尾高、大友の両者はすでに70代に入り、いずれ第一線から退く時期は避けられない。また山田和樹も、現在急速に国際的活動を拡大しており、将来的に活動の重心を海外へ移す可能性は十分考えられる。これはかつての 小澤征爾 や、英国楽壇における サイモン・ラトル の歩みとも重なる。国際的指揮者になればなるほど、特定作曲家への継続的コミットメントは難しくなるのである。

もちろん、“Bグループ”に位置づけられる指揮者群は存在する。エルガー演奏に一定の実績を持ち、人気や知名度も兼ね備えた指揮者たちである。テレビ番組やメディア露出を通じてクラシック界の裾野拡大に貢献している人物もいる。
だが、率直に言えば、現状ではAグループとの間に質的な隔たりが存在するのも事実だ。
問題は単なる“演奏回数”という「量」の問題ではない。エルガーという作曲家は、譜面を正確に再現するだけでは成立しない。英国音楽特有の呼吸感、抑制された感情表現、陰影のある管弦楽法、そして表層の壮麗さの奥に潜む孤独感やノスタルジア――そうした複雑な精神性を理解して初めて、真価が立ち上がる作曲家である。
その意味で、現在の日本のエルガー演奏は、少数の高度な理解者によって支えられている側面が強い。
もちろん、未来は固定されたものではない。新たな才能が現れれば状況は変わるだろうし、若い世代の中から真にエルガーを理解する指揮者が登場する可能性もある。しかし仮に現状のまま推移した場合、日本における“エルガー暗黒時代”が再来する危険性は決して杞憂ではない。
無論、エルガー作品自体が日本のオーケストラ・レパートリーから消滅することはないだろう。《威風堂々》や《エニグマ変奏曲》は今後も演奏され続けるはずである。だが問題は、その「質」である。現在Aグループの三人が実現しているような、高密度で精神性に富んだエルガー演奏が維持される保証はない。
そうなれば、頼るべきは海外ゲスト指揮者ということになる。幸い、英国系を中心に優れたエルガー指揮者は豊富に存在する。たとえば マーク・エルダー、エドワード・ガードナー、ワシリー・ペトレンコ、ジョナサン・ノット、アンドリュー・マンゼ 、ダニエル・ハーディングらは有力な候補だろう。さらに非英国圏にも、エルガー解釈に優れた指揮者は少なくない。カーチュン・ウォン、グスターボ・ドゥダメル、カリーナ・カネラキス、マラト・ビゼンガリエフなどが挙げられよう。
しかし、やはり望みたいのは“国産のエルガー文化”である。
これは演奏家だけの問題ではない。作品を紹介し、分析し、受容を支える「書き手」にも同じ問題が存在する。現在、日本語でエルガーを本格的かつ継続的に論じられる書き手は決して多くない。演奏史、英国音楽史、宗教性、文学性、録音文化まで含めて総合的に論じられる人材は極めて限られている。
文化とは、突然消滅するのではない。理解者が少しずつ減り、「継承」が途絶えたときに静かに痩せていくのである。
だからこそ今、日本のエルガー受容は一つの転換点に立っているのかもしれない。




