希望と栄光の国

希望と栄光の国

 

吟遊詩人としてのエルガー

 

 

――《威風堂々》と祝祭、そして悲劇

 

 エルガーは、作曲家という存在をこのように語っている。

 

 「私は作曲家の仕事を、かつての吟遊詩人のようなものだと考えている。彼らは人々のもとへ赴き、歌によって心を活気づけた。今、人生のさまざまな場面を音楽で祝いたいと願う人々がいる。そのために私は作曲するのだ。」

 

 この言葉に、エルガーの芸術観のすべてが凝縮されている。
 彼にとって音楽とは、抽象的な美の追求である以前に、人間の感情と社会の営みに寄り添う行為であった。祝祭、儀礼、哀悼、希望――そのすべてに音楽は必要であり、作曲家はそれに応える存在である。

 

 この思想の最も鮮やかな結晶が、1901年、44歳のエルガーによって書かれた行進曲《威風堂々 第1番(Pomp and Circumstance March No.1)》である。

 

 

 

シェイクスピアから生まれた国民的旋律

 

 原題 Pomp and Circumstance は、シェイクスピア『オセロ』第3幕第3場におけるオセロの台詞に由来する。

 

The spirit-stirring drum, the ear-piercing fife,
The royal banner, and all quality,
Pride, pomp, and circumstance of glorious war!

 

 ――魂を揺り動かす太鼓、耳を貫く笛の音、
 王の旗、そして栄光ある戦いの誇りと威容。

 

 この言葉のもつ高揚と壮麗、その精神的昂揚が、エルガーの音楽において比類なき形で結晶した。

 

 初演は1901年10月19日、リヴァプールにて。指揮はアルフレッド・ロードウォルド、リヴァプール・オーケストラ協会の演奏で行われた。ロードウォルドは繊維商として成功を収めるかたわら、音楽への深い理解を持ち、エルガーの最大の支援者の一人でもあった。エルガーはその厚意に報いるかのように、第1番を彼と彼のオーケストラに献呈している。

 

 4日後のロンドン初演では、ヘンリー・ウッドの指揮のもと、クィーンズ・ホールが熱狂に包まれた。ウッドはその時の様子をこう回想している。

 

 「聴衆は総立ちとなり、歓声を上げた。私はもう一度演奏せねばならなかった。しかし結果は同じだった。結局、秩序を取り戻すために、三度も繰り返すことになった。」

 

 これは単なる成功ではない。
 この瞬間、エルガーは「英国の作曲家」から「国民的象徴」へと変貌したのである。

 

 

 

《希望と栄光の国》の誕生

 

 とりわけ中間部の旋律は、国王エドワード7世の心を強く捉えた。国王はエルガーにこう語ったという。

 

 「あなたは、世界中の人々が口ずさむ旋律を書きましたね。これに歌詞をつけてみてはどうですか。」

 

 エルガー自身も、この旋律を特別視していた。
 「このようなメロディは、人生に一度しか作れない。」

 

 翌1902年、国王の戴冠式を祝うために作曲された《戴冠式頌歌》の終曲として、この旋律にアーサー・クリストファー・ベンソンの詞が与えられ、《希望と栄光の国(Land of Hope and Glory)》が誕生する。

 

 さらに楽譜出版社ブージーの提案により、この曲は独立した歌曲として改作され、同年6月、エルガー自身の指揮、クララ・バット独唱により初演される。今日「プロムス・ラスト・ナイト」で歌われる詞形は、このとき確立したものである。

 

 こうしてこの旋律は、トマス・アーンの《ルール・ブリタニア》、ヒューバート・パリーの《エルサレム》と並び、「第二の国歌」として英国人の精神に深く刻み込まれてゆく。

 

 

 

戦争による意味の反転

 

 しかし、この成功は、やがて深い悲劇へと転じる。

 

 第1次世界大戦の勃発とともに、《威風堂々》と《希望と栄光の国》は、国民の戦意を鼓舞する音楽として盛んに演奏されるようになる。

 

 それは、エルガーにとって耐え難い現実であった。

 

 自らの才能を最初に認め、深く理解してくれたドイツ――その国と戦火を交える英国。その戦争を鼓舞する伴奏音楽として、自分の最愛の旋律が鳴り響く。
 そこには、芸術と政治、精神と国家、個人の良心と集団の熱狂との、修復不能な裂け目があった。

 

 祝祭の音楽として生まれた旋律は、いつしか戦争の行進曲へと姿を変える。
 吟遊詩人の歌は、いつの間にか、戦場へ向かう兵士たちの足並みを揃える拍子となっていた。

 

 この逆説こそ、エルガーという作曲家が背負った、近代の悲劇である。

 

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