《ゲロンティアスの夢(The Dream of Gerontius, op. 38)》

《ゲロンティアスの夢(The Dream of Gerontius, op. 38)》

《ゲロンティアスの夢(The Dream of Gerontius, op. 38)》

 

 1898年、エルガー41歳。彼はセカンド・ハウスとして、ノース・モールヴァンのグレート・ストーリッジにある山小屋「バーチウッド・ロッジ」を借り受ける。この家は、生涯に数多く移り住んだ住居のなかでも、エルガー自身が格別の愛着を抱いた、特別な場所であった。

 

 白樺の木々に囲まれたこのコテージは、幼年期を過ごしたブロードヒースの「ザ・ファーズ」を思い起こさせる佇まいを持ち、彼の記憶と感性の最深部に静かに触れた。夏のあいだ、エルガーはここで自然とともに暮らし、沈黙と孤独のなかに創作の源泉を求めた。

 

 翌1899年3月21日、8年間住み慣れた「フォーリ」を去り、モールヴァン・ウェルズ・ロード86番地の「クレイグ・リー」へと転居する。「Craeg Lea」という名は、「Edward」「Alice」「Carice」という三つの存在の頭文字と、「Elgar」の名とを織り交ぜて生まれた、象徴的なアナグラムであった。そこには、作曲家としての自己と、夫として、父としての人生とが、分かち難く結びついていることが示されている。

 

 この二つの家――バーチウッド・ロッジとクレイグ・リー――を往還しながら、1899年から1900年にかけて、エルガーは畢生の大作《ゲロンティアスの夢》に取り組む。

 

 

 「これまで私は、飲み、食べ、喜び、悲しみ、さまざまなことをしてきた。しかしそれらはすべて幻のようなものだ。だが、今は違う。どうかこの作品の一部でよいから、あなたの心に刻んでほしい。これこそが、私の最高の作なのだから。」

 

 エルガーは《ゲロンティアスの夢》について、そう語っている。この言葉には、彼がこの作品に託した精神の深さと、作曲行為そのものへの覚悟が凝縮されている。

 

 創作の過程は、ほとんど神秘的とすら言えるものであった。楽想は、まるで天使の軍勢が押し寄せるかのように、次々と彼の内奥から湧き上がってきたという。

 

 バーチウッドの森からナイトウィックへと続く小径を、彼は日々歩いた。風に揺れる枝葉のざわめき、鳥のさえずり、遠くでせせらぐ水音。そのすべてが、音楽となって彼の内に沈殿し、やがて旋律へと結晶していった。

 

 「木々が私の歌を歌っているのか。それとも、私が木々の歌を歌っているのだろうか?」

 

 自然と自己との境界が溶解するこの感覚こそ、エルガーの創作の核心である。
 この森の景色を前にして、彼はいったい《ゲロンティアス》のどの瞬間を掴み取ったのだろうか。
 魂の出立か。
 天使の導きか。
 それとも、煉獄の影か――。

 

《ゲロンティアスの夢(The Dream of Gerontius, op. 38)》

 

 

 《ゲロンティアスの夢》は、1900年6月、バーミンガム・タウン・ホールにおいて初演された。しかしその結果は、作曲家の期待とは正反対の、痛ましい失敗であった。

 

 楽譜出版社ノヴェロ社の編集者アウグスト・ヨハネス・イェーガー――《エニグマ変奏曲》第9変奏「ニムロド」のモデルとして知られる、エルガー最大の理解者――との綿密なやり取りは、作品の完成度を高める一方で、パート譜作成の遅延を招いた。そこに加え、初演指揮者スイーナートン・ヒープの急死という不運が重なり、急遽ハンス・リヒターが代役を務めることとなった。

 

 だが、いかなる名匠をもってしても、準備不足は覆い隠すことができなかった。演奏は混乱し、合唱とオーケストラは噛み合わず、聴衆の期待――とりわけヘンデル風の壮大なオラトリオを待ち望む保守的な耳――を大きく裏切る結果となった。

 

 だが、その場に、未来を聴き取る耳が存在していた。

 

 ドイツの指揮者ユリウス・ブーツである。彼は、この作品に宿る新しい精神――内省、信仰、個の孤独、そして超越――を直感的に理解した。即座にドイツ語訳を施し、母国で上演。これが圧倒的な成功を収める。

 

 その演奏を聴いたリヒャルト・シュトラウスは、深い感動をもってこう語ったと伝えられる。
 「ついに、イングランドにも偉大な作曲家が現れた。」

 

 この瞬間、《ゲロンティアスの夢》は、挫折の淵から、真の評価の高みへと引き上げられたのである。

《ゲロンティアスの夢(The Dream of Gerontius, op. 38)》

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