遂につかんだ名声

シャーロック・ホームズが挑むエニグマの謎

ヴィクトリア朝ロンドンの霧煙る夜、ベーカー街221Bにて。シャーロック・ホームズが1899年6月19日、ロンドンのセント・ジェームズ・ホールで催されたエルガー《エニグマ変奏曲》初演を聴いた、という仮定のもとに、彼がその「エニグマ(謎)」に挑んだ様子を、短編小説の一場面風に描いてみよう。

 

 

 

《ベーカー街のエニグマ》

— シャーロック・ホームズとエルガーの謎 —
「ワトソン君、私は奇妙な音楽的暗号を見つけたようだ。」
例によって、朝刊を読み終えたばかりの私は、向かいの椅子に座って煙草の灰を落としているホームズの声に顔を上げた。
「昨夜のコンサートのことかね?」
「そう。エルガーという男の新作、変奏曲のことだ。」
彼は、例のチェロの主題を口ずさむと、ピアノの前に立ち、主題の和音進行を一通り弾いてみせた。
「極めて興味深い構造だ。あれはただの変奏曲ではない。“エニグマ”とは言い得て妙だ。作曲家は、“主題に対する別の主題”が全体に潜んでいるとほのめかしていたが、聴衆には明かされなかった。だが私の耳は逃さなかったよ。」
「ほう、それで?」
ホームズは笑みを浮かべ、ヴァイオリンのケースを取り出すと、しばしチューニングしたのち、第6変奏《Ysobel》の旋律を丁寧に奏でた。
「この変奏、ビオラ奏者への献呈だが、最初の数音に B-A-C-H の動機が隠されているように思える。つまり、音名によるアルファベット暗号だ。エルガーがこの作品全体に知的遊戯を忍ばせているのは明白だ。」
「まるでバッハのように?」
「そう。だがそれだけではない。」
彼は楽譜をテーブルに広げ、変奏I《C.A.E.》からXIV《E.D.U.》までの各変奏の頭文字と調性をひとつずつ指で示した。
「各変奏は、彼の友人たちを描いた肖像だが、その配列が偶然とは思えない。特に最終変奏《E.D.U.》──これは彼自身を表しているとされているが、主題全体に回帰しつつも、途中に明確な他者の動機が混じる。」
「誰の動機だと?」
「それこそが“別の主題”だ。私は、あの主題がドイツ民謡《Ein feste Burg ist unser Gott(われらが神は堅き砦)》に類似していると睨んでいる。音列だけでなく、構造的にもね。エルガーは敬虔な信仰者ではないが、英国の文化的記憶に深く根ざした旋律を選んでいる可能性がある。」
「それが“語られざる主題”か?」
「あるいは、“イギリスそのもの”と言ってもよい。彼の友人たち=イギリスの民衆、その上に共通して流れる精神的主題。極めて国民的な変奏曲だよ。エルガーは一種の“音楽による推理小説”を書いたのだ。」
「すると君は──この“音楽探偵小説”のトリックを、すでに見破ったと?」
「いや、完全には。だが、私は作曲家が言った『別の主題が、しかしどこにも鳴らされない』という言葉に、バッハ的逆説を感じる。“不在”の中にこそ“存在”がある。つまり、あの変奏曲には、聴こえない旋律──沈黙の主題 が流れているのだよ。」
私は少し唖然としたが、ホームズが煙草をふかしながら続ける言葉に、耳を傾けた。
「ワトソン君、音楽もまた、論理と感情の間にあるミステリだ。そしてこの“エニグマ”、我々にはまだ語るべき謎が残されている。それは、芸術という形式がいかにして人間の記憶を宿すか──その問いへの挑戦でもあるのだ。」

 

 

補足:ホームズが用いた推理手法

音型の暗号解読(B-A-C-Hや音列によるアルファベット対応)
献呈先の人物像と音楽的特徴の照合
主題構造から隠された旋律(“Ein feste Burg”説など)を導出
作曲者の言葉を論理的に解釈し、パラドクス(不在の主題)を導く

 

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